感情を科学したら

今日はちょっと難しい話になるかもしれません。

ある生徒とこんな話をしました。

その生徒は、数学の証明で「もう分かっていること」をなぜ説明するのか意味が分からない。

と言っていました。

私は、科学の再現性について話をしました。16、17世紀頃にヨーロッパで科学が生まれた時に、デカルトに代表される学者たちが、様々な学問に共通のルールを作った。その一つが、再現性だ。例えば、私が、テーブルの上でボールを転がすといつか止まる。これは誰もが再現できる。あなたが家で再現できる。

非科学的なものは再現できない。例えば、あなたが誰かに怒ったとする。その怒りを私は再現できない。だから感情は科学ではない。

数学の証明問題で、正しいと分かりきっていることを、わざわざ正しいと証明するのは、この科学の再現性の初歩的な練習なのだ、というような話をしました。

 

その話の途中に、その生徒は「感情を科学しようとしたのが哲学ですよね」と言ったのです。

一瞬「いやちょっと違うかな」と思ったのですが、

いや、待てよ

待て

まさにその通りじゃないか!!

 

これは冷静に考えると恐ろしいことです。

「哲学」と言った場合、人生のルールだったり、人生観だったりそういうことを差す場合が多いです。

例えば「私の哲学」と言った場合、「私の人生のルール」という意味だったりします。

 

しかし、デカルト(一応読みました)、カント(途中で挫折しました)、ラッセル(一応読みました)のようなアカデミックな哲学者たちのいう哲学は、感情を科学的にとらえようとする試みです。

ラッセルは「分かる」ということを科学的に捉えようとしました。

 

この生徒は何をどこまで知っているんだ????

 

 

こういう会話がたまーにつばさであります。

学校に行っていないのに、よく知っている、よく考えることができるのではなく、よく考えることができるから学校にいきづらくなるのだと思います。

学校に適応するなら、指示通りに証明問題を解き、解き方を理解するだけにした方が楽です。

「なぜこれを学ぶのか」は考えない方が楽です。

私も今回はたまたま、私なりの答えを持っていて、話せる時間があり、聞いてくれる生徒がいたから会話が成立しましたが、普段から1つ1つ「なぜこれを学ぶのか」なんて話はしていませんし、できません。私一人の知識では限界があります。

学校か、塾か、家庭か、つばさか

どこでもいいのですが、「なぜこれを学ぶのか」をもっと考えられれば、もっと楽しくなるのにな、と思いました。

 

つばさ高等学院/スクール 西中 伸

 

 

 

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